豊平第4分区町内会

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第4分区の歴史 第4分区町内の歴史です

豊平第4分区町内会の歴史
(参考文献 「郷土史豊平地区の140年」平成9年8月28日発行)

・第4分区町内会の歴史

前同郷土史掲載の4分区町内会第7代会長・今野 一氏による地区の歴史  

・歴代会長名・任期・主な実績等

 

 

第4分区町内会の歴史

 町内会独自の歴史資料は皆無である。豊平地区の歴史資料に頼らざるを得ません。
町内会地域の皆さんが、過去の歴史の探求する一助となればと思い、「郷土史豊平地区の140年」枝元正雄氏の文章から抜粋引用させていただきました。

 私どもの郷土豊平地区は、安政4年(1857年)幕府・箱館奉行所石狩役所による札幌新道(銭函―星置―琴似―豊平川―千歳―勇払間・現国道5号及び36号)開削に伴い、豊平川の渡し守兼通行屋(旅人宿舎)責任者に任ぜられた信州浪人・優れた剣客といわれた志村鉄一が妻子とともに、現在の豊平3条1丁目に居住したことに始まり、すでに140年の歳月が流れました。(※定説では、安政4年とされているが、その後の研究により安政5年頃までには志村が居住していたと推測される。)

 開拓使設置(明治2年(1869年)以前の札幌周辺村落、松前藩時代から先住アイヌ民族を除いて和人が定着していたのは石狩場所(現石狩市)の他シノロ・サッポロ・コトニ・ハッサム・ホシオキで道都決定の本府(札幌市街地)及び豊平川南投では、安政2年(1855年)狩人の吉田茂八(妻子とも4人)が豊平川畔に住み、2年後志村鉄一の本流、吉田茂八が北側の支流の渡し守に任命されましたので、開拓使以前の定住和人は2戸7人と記録されています。 

 明治2年5月の箱館戦争後、開拓使の本府建設開始とともに、箱館より豊平地区初の入植者吉村富作、3~4年に岩手・宮城・秋田県人の集団入植により平岸・月寒・白石・上白石村相ついで生まれました。しかし現・豊平・美薗地区は、現国道36号開削後大判官松本十郎によって豊平の地区に一村落を計画していたところ明治6年、石川県民入植の翌7年、「豊平村」が誕生しました。 豊平地区は、豊平川を隔てて本府(札幌市街)に接し、豊平川以東の交通の要衝を占める室蘭街道(現国道36号)中心でありますが、大正13年の豊平橋の永久化、昭和5年の永久堤防工事完成まで全国有数の急流、即ち・暴れ川のため大洪水により35回以上ともいわれる架橋・築堤工事を繰り返してきました。さらには、明治33年の経王寺から豊平橋までまちの大半235戸焼失はじめ、大正8年115軒、大正14年163軒と3度にわたる大火に見舞われる痛手を蒙りました。

 明治6年月寒村島松(現北広島市)入植の中山久蔵が赤毛稲作清興以来入所武者念願の稲作も明治20年代(1887~)に入り広く試みられ、急速に農業入植者が安定するようになりました。

 こうした中で豊平地区(豊平村のうち除美園地区)の現国道36号両側は、農機具・馬具・蹄鉄・鍛冶屋・みそ・醤油醸造業はじめ一般商店、札幌市街より廉価な飲食・宿屋等が軒を並べていました。明治33年の大火災後明治43年の札幌区編入時には696戸・4642人と人口も増加し、豊平橋より九定鉄横の交番に至る街道両側は、別掲図(省略)の専門店ともいえる41軒が軒を並べていました。

 これは、札幌市街の延長でもありましたが、豊平川東南部隣接村々を補完する第2・第3産業地として発展したのでありました。

 街道を離れた豊平地区は、上白石村を含めた農業・牧場地帯、旭町や水や町の名が示す果樹・水車小屋があり、明治28年竣工の豊平他3か村連合用水組合によって水田事業が大いに拡大しました。さらには、明治41年北海中学校の水車町移転による文教面での貢献、43年の金星ミルク工場設立等が相次ぎました。

 明治30年の豊平外4か村戸長役場から白石・上白石を除いた豊平・月寒・平岸3か村戸長役場に移行した。つづいて明治35年(1902年)北海道一・二級町村制によりそれまでの豊平・平岸・月寒3か村戸長役場から、豊平・月寒・平岸の3村と合併した「豊平村」が誕生、40年一級町村。41年には町制施行と発展し、議員公選、首長も一級制では村会選出と住民の意見が反映されるようになりました。

 ところが、豊平地区を除く美園はじめ平岸・月寒の純農村地区との意見が対立、即ち、町税(当時の町税の大半は地租税・現在の固定資産税)の多くが納税率の少ない商業の多い豊平地区に支出されることから明治43年(1910年)の第30回豊平町会で現豊平連絡所(現まちづくりセンター)管内の札幌区編入を議決されたのであります。このときは、定住者の多い農村地帯と転出入の多い豊平地区、そして区域拡大に迫られていた札幌区(現札幌市)と農業地区住民からは厄介払いといった形で円満に推移したと記録されています。

 しかしながら札幌合併後の豊平地区は、札幌市の発展とともに推移してきたとはいうものの、市域からすると同時合併の上白石(現菊水)とともに周辺地域として位置づけからか、必ずしも恵まれたということができず、豊平墓地・白石遊郭、貧民街の集積地域といったことを避けることができなかったとも言うことができよう。

 大正初期からの貧民街救済に当った岩井鉄之助氏による大正2年以来の愛隣館活動、札幌市の貧民街調査と対策等々が敗戦まで続けられました。また、札幌第1号の大石スク氏による札幌保育園や、豊平キリスト協会活動、戸津高知氏らによる豊平小学校夜間部開設等々、豊平地区ならではの現在でいう社会福祉活動が活発に行われました。そして戸津扶佐子らの豊平主婦の会による手づくりの札幌市初の「私立やよい児童会館」が昭和28年に誕生するのでした。 

 昭和28年以来10余年にわたり国道36号は拡張舗装を行い現在の姿となりました。暴れ豊平川、豊平渡し守、架橋・落橋をくり返したものの動脈としての現国道36号は、馬車輸送からバス事業、大正7年の定山渓鉄道開通(現JR白石から定山渓)、大正13年の市電導入、(昭和46年の地下鉄で44年定鉄、46年市電廃止、市電廃止後は中央バスのドル箱路線)等々。36号線は豊平地区とともに発展を続け、待望の地下鉄東豊線も平成7年開通いたしました。

また、明治19年設立の豊平墓地も永年の曲折を経ながら完全移転を果たし、隣接の林業試験場跡の豊平公園につづいて道立体育館(現きたえーる)の建設が開始され、おそいテンポではありますが、豊平地区都市再開月事業も進み、かっての豊平地区の面影を見ることができなくなりました。            

 以下省略

 

前同郷土史掲載の第4分区町内会第7代会長・今野 一氏による地区の歴史

 

豊平第4分区町内会は、志村鉄一氏の碑が近くにあり、町内には開局百有余年になる豊平橋郵便局と北陸銀行豊平支店があり、歴史の古い土地柄の所です。

(※ 旧豊平郵便局は、明治16年、阿部仁太郎氏により旧豊平村最初の郵便局として現豊平4条1丁目(現プレミアホテルTSUBAKI札幌)の地に開設された。実質的に局の運営に当たったのは仁太郎の弟の由太郎で正式名は「札幌豊平郵便局。昭和37年に現在の豊平郵便局が開設され「豊平橋郵便局」と改称された。その後、昭和61年に再開発事業により現豊平4条2丁目に移転し、今も歴史を刻んでいる。) 

亡き父が昭和の始めに移転してきたときは、辺りはほとんど畑で家がポツポツとあったとくらいで馬小屋もありました。平岸街道より経王寺の裏の方から小川が流れていて水がとてもきれいだったそうです。現在ではとても想像できない風景です。

 昭和43年4月に町内会が創立されて以来、隣人とのふれあい、防火・防犯・交通安全等事故のない町づくりがされてきました。

 昭和63年の創立20周年記念事業として、同年4月、町内に水銀灯80W14基の街路灯設置工事が完成しました。これは、10年間にわたる全会員のご協力による積立資金が使用されたものでした。また、同年9月には「平安閣」において盛大な祝典が開催され「創立20周年記念しおり」も発行されました。町内かにとっては一大事業だったと思われます。

 次に、札幌市都市再開発計画の方針により、第4分区町内会は、昭和58年頃に「東会」「豊会」「みよしの会」の三つの会が作られました。平成元年7月に「東会」では、札幌市役所に再開発事業推進要望書を提出し、平成2年6月に「豊平橋南第3地区第一種市街地再開発準備組合」が設立されました。同時に札幌市では、密集住宅都市整備促進事業も進められ、現在では会員の半数は売却して他の地区に転出されました。なお、準備組合のその後の活動は、バブル経済崩壊のため現在は休止の状態です。

 会員各位にとって再開発問題という重大な問題に取り組んでいる近年ですが、よりよい方向に向かう再開発事業であることを願っています。
  
(※ 平成20年の創立40周年区記念誌にその後の歴史に触れています。

本町内会は、昭和43年(1968年)4月創立以来、40年という節目の年を迎えました。時節の経過とともに人の心が変わろうとも、先達が厳しい風雪に耐え歴史に刻んだ事跡は消すことは出来ません。

当町内会の地域は、昭和56年に「豊平川河畔地域右岸地区整備基本構想」が策定されて以来、再開発事業が展開され、平成12年から同16年にかけては、エクセルシオール豊平橋・同ステア等の大型マンションの建設によって近代的な街並に変わった半面、多くの会員の方が転出したため、一時は地域の連帯感が希薄になり町内会の存続さえも危惧されたのであります。

そのような厳しい地域環境の中、今野 一前会長及び小林 梢現会長・渡部住子前副会長・兼成英俊前副会長が中心となり、マンション居住者の方々に働きかけ、まさに、再開発事業の推進同様に町内会の再構築に尽力されたことも事実であり、決して忘れてはなりません。

40周年の記念事業として、町内会会員の皆さんに当町内会の“小さな歴史を知ってもらいたい”との趣旨から「豊平第四分区町内会小史 先達に感謝 明日に向かって」と題する記念誌の編纂刊行をすることとしました。

犯罪や事故・災害のない安全・安心の地域づくりには、地域住民の連帯・ふれあいが最も重要であり、大震災の教訓からも『町内会の役割の大切さ』を学び取ることが出来るのであります。

会員の皆様には、今後とも町内会活動にご協力・ご支援あらんことを願って止みません。

発刊に当り、豊平区長、豊平地区町内会連合会会長のお二人から玉稿を賜りました。また、会員の方々からご寄稿をいただき、衷心より厚く御礼申し上げます。

ここに、先達に感謝の誠を捧げるとともに、会員の皆さんが大いなる未来と明日に向かって飛翔されんこと願ってあとがきとします。

平成20年4月吉日    (総務部長 渡辺 英雄 記)

 

 

歴代会長名・任期・主な実績等

 昭和28年、札幌市から「衛生協力会」設立の要望があり、「第4分区衛生協力会」設置。昭和43年の豊平聯合町内会の発足にともない「第4分区町内会設立準備委員会」設立、同年4月創立総会を開催。

 

初代会長 莖津  弘(昭和43年・4~12)

・町内会会員の親睦と会員連帯意識の向上、衛生環境の改善を目標とした活動を進めた。


2代会長 近藤 誠七(昭和44年・1~12)

・町内の街路灯の完備や地区の衛星完備に努めた。


3代会長 星川 盛雄(昭和45年・1~46・12) 

・豊平地区の環境浄化実践運動に参加し、道路清掃・空地の除草・福祉活動に取り組む。


4代会長 今野 道男(昭和47年・1~51・12)

・町内活動も軌道に乗り順調に発展の途上にあり、町内会委員による年1回の会食、旅行等の行事も会長の発案により実施。秋には環境衛モデル地区として、札幌市長賞と札幌市衛生協力連合会長賞の二つの栄誉ある表彰受賞。


5代会長 吹田 定雄(昭和51・1~平4・12)

・昭和53年「町内会創立10周年記念祝賀会」を豊平地区センター盛大に開催、永年町内会活動に貢献された次の方々が表彰の栄を受けた。

  「豊平区長賞」今野 迪男・南出  武

  「町内会長賞」樫山  彰・木村  潔・高沢 秀弥・石沢 政一・渡部 幹夫・原橋 栄子・斎藤 貞吉・前川 五郎・西村 鍵三・宮下  隆

・昭和63年「町内会創立20周年記念祝賀会」を平安閣で執行。

 ・20周年記念事業積立金で町内地域に水銀灯80W14基の街路灯設置、式典では次の方々が表彰の栄を受けた。

   「札幌市長賞」吹田 定雄

   「豊平区長賞」
   樫山  彰・渡部 幹夫・原橋 栄子・斉藤 貞吉・前川 五郎・西村 鍵三
   北川 忠司・今野  一

   「町内会長賞」
   南出  武・南出 タミ・井上ヨシ子・前川喜久子・西村 敏子・北川 和子
   今野 茂子・杉原 月子

 ・その他、町内活動の一泊温泉旅行、観光地日帰り旅行、野外会食等毎年一大事業として実施。


6代会長 北川 忠司(平5・1~6・12)

・札幌市街路灯組合連合会から助成等受けられるよう努力。恒例のレクリェーション等を実施。


7代会長 今野  一(平7・1~11・12)

 注)以上資料につきましては、斉藤  修・前川 五郎・渡部 澄子・小林  梢の皆様のご協力により作成しました。

 

8代会長以下の活動功労等については「豊平4分区町内会のあゆみ」に記載


8代会長 小林  梢(平12・1~23・12)


9代会長 渡辺 英雄(平24.1~現在)

 

 

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